タルティーン司令部戦略課室長日誌

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映画の記事

毎日かあさん

映画『毎日かあさん』を観てきました。

 

原作はお馴染み、同名の西原 理恵子(サイバラ)さんの自伝的エッセイコミック。テレビではアニメにもなっていますが、劇場版映画は実写(一部除く)。
実写ではありますが、ブンジくんフミちゃん(どちらもサイバラさんのお子さん)は実際よりも原作コミックのイメージが強いので、むしろ違和感の無い感じでした。
実際の文治少年は、コミックほど「がきんちょ」くさくは無いのですが、この映画のブンジくんはコミックの「いがぐり坊主」な感じがよく再現されていました。フミちゃんも同様。
サイバラさんカモシダさんはアニメよりも実際寄りの西原さん鴨志田 穣さんです。

 

主人公は勿論サイバラさんなのですが、描き方的にはブンジくんやカモシダさんが中心になっている感はありました。
というのも、ネタバレになりますが、物語は概ねカモシダさんとの出会いから、彼が病死するまでの間になるからです。
カモシダさんの「駄目男っぷり」が現実的に、そして、その裏にある「戦場カメラマンの苦悩」が情景的に描かれています。実際の西原さんが生前の彼をどのように評価しているかはともかく、この中立的な描き方は好感が持てました。

 

トラブルメーカーなのは、そのカモシダさんとブンジくん。その間にいるのがフミちゃんで、それらをすべて見ているのがサイバラさんというのが、大雑把な構図になります。
だから物語として描かれる中心にいるのがくだんの2人に思えた、という訳です。

 

 

一言で言えば、よくある「いい感じの日本映画」で、「笑いあり涙あり」という類です。
辛口な評価を言ってしまうと「悪くは無いが、必見という程のものではない」です。

 

ただ、映像作品として、うまく纏められているとは思いました。
特に個人的に「良い」と感じたのはタイでの出会いと、アマゾンでの再会シーン。海外ロケ…ではなく、セットです。しかもものすごくチープな。30代以上の人の中には「ひょうきん族に出てきたようなあんな感じの海外セット」と言えばイメージできる方もいるのではないでしょうか。ショボいです。ヘボいです。(笑)
でも、そのチープさが逆に原作コミックのイメージを出しています

 

アルコール依存症の中、カモシダさんが見る幻覚。
爆撃によって破壊された部屋。その向こうにいる、瓦礫の中のブンジとフミ
戦場写真をバックにした演出ですが、彼の苦悩を情景的に表していました。

 

劇中、死期の迫る「彼」は家族スナップを積極的に撮り始めますが、これが実は「本当に」シャッターを切っており、エンドロールではこの写真が背景になります。
カモシダさんを演じるのは永瀬 正敏さん。彼自身、サイバラさん演じる小泉 今日子さんとの離婚歴を持ち、かつ、写真家でもあるので、物語の2人とは微妙にカブっている妙もあるのですが、このエンドロール、使用された写真の撮影者である永瀬さんの名前に続き、鴨志田さんの名前が出てきて、背景の写真は実際の彼が生前に撮影した現地写真と交錯します。
極めて隠喩的であり、こういうのも映像作品として「いいな」と感じた部分でした。

 

 

家族で観に行きたい映画、という類ですね。
誘われた方には「うぜぇ」と思われるだろうこと、ほぼ必至ですが。(苦笑)
でも、自分は「観てよかったな」とは思いましたよ。

 

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SPACE BATTLESHIP ヤマト

映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』を観てきました。
原作(以下、テレビアニメ版・コミック版・劇場アニメ版および劇場小説版を原作と呼びます)を知っているので、どのようにリメイクされているのか、強い関心がありました。
総評。ひじょうに良かったです。満足。もちろん、原作原理主義者というのは必ずしる訳でして、「原作と違う!」というような人はいるでしょうが、そういう考えを除外すればとても楽しめる作品だと思います。

 

 

印象としては、ヒロインの森が原作に比べて、かなりアグレッシブかつツンデレかな、と。
ただ、これはこれでアリです。原作と同じような展開や遣り取りを実写で行うと、あまりにマンガになり過ぎます。その意味ではメリハリあるリアレンジになっていたと思います。

 

また、原作を知る人には「え?」と感じるのが船医の佐渡でしょう。
原作ではちんちくりんな爺さんでしたが、本作では美人女医。まぁ、原作のままでは、これもあまりにマンガになり過ぎます。制作サイドは相当に悩んだキャラクターではないでしょうか。
お酒と、ネコのミーくんがトレードマーク。これを実写で違和感なく演じるのも大変だったでしょう。それが何気ない感じにまとまっていたのは見事です。

 

ネタバレになりますが…、ヤマトのマスコットでもあるアナライザー。これも大きく違います。
原作では某スターウォーズのR2D2みたいなキャラでしたが、本作では携帯端末。しかもヤマトの…というよりも、古代の所有物。あまりに大きな設定変更なので、あのロボットな姿が見られないのは残念に思うかもしれません。
で…、ちゃんと終盤ではロボットの姿になります。自立型、なのだそうですが、パンフレットによると、当初は登場する予定はなかったそうです。スタッフが「アナライザーのいないヤマトはヤマトじゃない」と言って登場させた姿だとか。この意見には激しく同意です。
ただ、その自立型アナライザーのデザインがまるで先行者ムービーな感じ。これは評価が分れそうです。

 

ガミラス星人のイメージも原作とはだいぶ違います。これも評価は分かれるかもしれませんが、個人的にはこれはこれでアリです。
原作のガミラス星人は正直、地球人に似過ぎていた感は否めません。パンフレットにもありましたが、顔の青い人間が現れたら、そっちのほうが違和感あるでしょうね。

 

 

かように違いが幾つか見られる反面、原作ファンにとっては「おやくそく」な場面はちゃんと押さえてあります。
恐らく原作ファンが最初に「おおーっ」と思うのは冒頭のナレーション松本零士アニメには欠かせない要素のひとつですが、まさにそのノリでモノローグが語られます。

 

廃墟のような地下居住地区。
もちろんCGによる産物ではありますが、松本SFのあの世界観を実写化するとこんな感じなんだなぁ…的な感動があります。スクリーンいっぱいに広がる地下都市は圧巻です。

 

宇宙戦艦ヤマト式の敬礼。あの、胸の前で右腕をグッと構えるアレ。
昔、ヤマトごっこと称して真似した人もいる筈ですが、ファンとしてはこのシーンもぞくぞくっとします。

 

原作が世に出された時代は、スターウォーズとも前後する時期です。松本零士やりんたろうはコレがやりたかっただろうなぁ…という動き、カメラワークが炸裂で、2D映画なのに思わず身体が動いてしまいました。
コクピットに寄ったカットと遠くから望むカット、このズーム等カメラワークが昨今のメカものアニメを強く意識した演出です。
実写の第一艦橋内部といい、なんかもう、映画を観終わるや否や「どっかのゲーセンに『ギャラクシアン^3』ないかな」とか思ってしまいます。(笑)

 

 

 

さて、久々に歌える邦語訳を作ってみました。今回は映画にちなんで「ヌスール・アルファダー」、アラビア版の「宇宙戦艦ヤマト」で「宇宙の鷲」という名です。
歌詞はオリジナルですが、原詩である日本語歌詞をうまく租借したように思えます。

 

arabic cartoon opening ヌスール・アルファダー
http://www.youtube.com/watch?v=TskCwjy2bA8
(動画を上げたのは私ではありません、念の為)

 

 

 皆(みな)は目指さん 宇宙空間
 まさに旅立たん 愛する…郷(ほし)…を…

 

  悪しき者達の 侵略を受け
  愛はかき消され 世界は神仰ぐ

 

  呼ぼう鋼鉄(はがね)の 君らの心を
  宇宙(そら)から見える 君らの進(ゆ)く地を

 

 なお悪しき者達の 侵略続く

 

 すべての平和を乗せて
 まさに旅立たん 愛する…郷(ほし)…を…

 

 

歌える訳詞にするため、例によって多少の解釈は入れています。例えば「宇宙(そら)から見える 君らの進(ゆ)く地を」の部分も本来の直訳では「君達の場所を天空から探そう」といった感じになります。どこにも「ゆく」等という言葉は含まれていないのですが、「君達の場所」とは「旅立つ先にある宇宙空間のどこか(=イスカンダル)」であり、かつ「平穏を取り戻した地球」ですから、このような訳詞を考えてみたわけです。
なお悪しき者達の侵略続く」は実はちょっと苦し紛れで、「sa…」は予定や未来形を表す前置詞なので、意味としては「悪の侵略者達によって支配されていくとなろう」といった感じです。ただ、2聯目で「悪しき者達の侵略を受け」と訳してしまっているので、押韻の意味でも同じような文にしなくてはならず、「なお…続く」という現在進行形として解釈しました。

 

「まさに旅立たん 愛する郷を」とか「呼ぼう鋼鉄の君らの心を」等、なかなかアラビア版の歌詞もかっこいいです。
個人的には、歌詞のどこにもタイトルが入っていないのがツボです。

 

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NESMLUVENA SETKANI

 

普段、趣味で訳詞をしている私ですが、字幕形式ファイル(SRT)の練習がてらにと、映画の翻訳をしてみました。

別に、SRTファイルをどこかに公開しようというのでも無いのですが…。

 

チェコの映画で「Nesmluvena Setkani」、日本語にすると「予期せぬ出会い」といったところです。

 

『Nesmluvena Setkani』(チェコ、1994年、イレナ・パヴラスコヴァ監督)

 

「あれ?
 チェコ語がわかるの?

 

いえ、英訳があるので、それを和訳しました。

 

恐らく日本未公開の作品で、内容はSFです。
ネット上に映画の一部があったので紹介します。

 

Nesmluvena Setkani (1994)
http://www.veoh.com/watch/v18178903W4wnx2TF

 

 

 

風変りなSFですが、色々な解釈のできる、興味深い映画です。

 

 

 

今から少しばかり未来」とありますが、劇中のセリフから、恐らく今から200年ほど先の時代設定のような気がします。
地球の人口は増えに増え続け、環境も悪化。新たな居住惑星を探し出し、植民計画を進めなければならない。そんな折に発見された、大気や重力が地球と酷似する「アルカ」と呼ばれる惑星。
探索隊である主人公達は、この星の更なるデータを集める為に遠征し、調査を開始。そこで思わぬ事件が起こります。

 

いくつも起きる事件の中、決定的だったのは、宇宙船に「人」が乗り込んできたこと。
狼少年を思わせる風体をしたそれとの出会いは、探索隊に動揺を走らせます。

 

次第に判明する衝撃的な事実と、人間のエゴイズムが交錯し、その狭間で狼少年ロビーは翻弄されていく…。

 

 

訳詞とは違うなぁと感じたのは、キャラクターの性格設定を作り直すところから始まるというところですね。
口調もそうですが、日本語の人称はそのキャラの雰囲気に直結するので、何度も繰り返し観ないと難しい。

 

これは参ったと思ったのが、ロビーに言葉を覚えさせるシーンです。
ネタバレになりますが、このロビーなる狼少年は、4時間で地球の言語をマスターするという驚異的な能力を持っています。まぁ、そんな人知を越えた能力がある故に、事件を深めていくのですが。

 

で、特に言葉を教えるという場面がある訳ではなく、主人公達の言葉を見様見真似で学習してしまうのです。これが翻訳する上で大問題。
事実上、彼の覚えた言葉とは、エヴゼンという科学者である隊員の口にしたものなのですが、エヴゼンはキャラ的には威張り散らして権力を振りまく存在なので一人称は「俺」、二人称は「お前」。

しかしエヴゼンの喋りを真似して言葉を覚えたとなると、登場人物の中で唯一の子役キャラ、しかも性格的に無垢なロビーが「俺」を使うことに。それは無いだろ…ということで、エヴゼンとロビーのやりとりはこんな感じに。

 

 

 

ちなみに翻訳元の英語では

 

     Yes, this is my voice.

 

     I.

 

になっていました。
言葉の意味はまったく違いますが、物語の展開上は実質的に同じ意味を持つのではないかと。

 

 

それと、慣用句というか、民俗に依存する常識は訳しづらいですね。
これが小説等ならば、「これは○○という意味を持つ言葉だ」などと添えることもできるのですが、会話しか無い映画に、こうした注釈を入れるのは難しい。

 

これまたネタバレになるのですが、ロビーには幼少時に耳にした言葉があり、それをたびたび口にします。
これらの言葉、欧米圏では誰でも知っている成句なのですが、日本ではポピュラーでは無いし、そもそも定まった訳語すら無いものもあるんですね。

 

 

 

暖炉のコオロギ(Cricket by the fireplace)」とはヨーロッパ全域に伝わる話で、cricket(コオロギ、バッタ、キリギリス等の直翅目に属する昆虫)は幸福を呼ぶと言われており、これと暖炉との組み合わせはクリスマス等の冬至祭典を象徴するようです。
でも、「赤ずきん」や「くるみ割り人形」ならばまだしも、そんな話、日本ではあまり馴染みが無いしなぁ…。

 

きりぎりすは食べ物がなくて」、英字幕では「the Cricket is hungry!」で、これは恐らく「ありとぎりぎりす」のことだと思われます。
この寓話は日本でもポピュラーですね。恐らくチェコでは「空腹のcricket」と言えばすぐにこの寓話と判るのでしょう。

 

 

言葉を変えてでもスマートに表現したほうが…と思ったのがこれ。

 

 

英字幕では

 

     You're boring and stiff.
     All you do is write programs.

 

となっていました。

 

この宇宙船のそとには、隊員達がつれてきたロボットが3体ほど配備されており、プログラムに従って動いています。
女性隊員マイカの台詞は、そのロボット達に喩えて、プログラムエンジニアである男性隊員スタースを批判しており、直訳するよりもこういう訳のほうがいいのではないかなぁと。

 

 

この映画、結局のところ、謎のすべてが解決される訳ではありません。物語の肝腎はそこには無いからなんですね。
そんな結末にある、最後の台詞はとても哲学的なテーマを投げ掛けているように思いました。

 

是非とも日本でも紹介されるべき、隠れた傑作です。

 

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さよならドビュッシー

 

『さよならドビュッシー』を観てきました。

 

さよならドビュッシー
http://good-bye-debussy.com/

 

原作は未読ですので、以下は飽く迄も映画としての感想になります。

 

 

内容は音楽ミステリです。音楽がテーマの映画作品ですから、そうした部分への表現は繊細です。
探偵役にして音楽講師の峠洋介を演じる清塚信也は劇中の演奏を担っているとともにアドバイザー、ピアノ指導という裏方もされており、そうした部分が細部にわたって感じられる作りになっています。
練習曲にしてリハビリ用の曲として登場する「くまんばちの飛行」はパーカッションとのアンサンブルが何とも言えぬかっこよさがありゾクゾクしました。これはドビュッシーの曲ではありませんが

 

本作に於けるドビュッシーは「月の光」で、この曲が全編を通して、ミステリとしても音楽物語としてもキーワードになっていると言えます。
月光」と言えば私はベートーヴェンの曲のほうを思い浮かべますが、優しい月明かりを思わせるドビュッシーの曲を掲げている辺りが、本作の音楽をテーマとしている上での方向性を伺わせます

 

 

さて。
この映画の感想を書こうとすると、どうしても物語の核心に触れないわけにはいきません。
ネタバレするので観ていない方は以下を読まないことをお勧めします!

 

 

というわけで総評ですが…。
もう少し事件についての描写があってよかったのでは…という印象が強いです。状況証拠だけというのはミステリとしては何とも心許無い。決定的な証拠がないままに逮捕のシーンになってしまうのは唐突感が否めません。

 

また、ギミックやテーマとしては結構古典的なものであったりもします。
本作の良さは、むしろ「古典的なミステリギミック」と「古典的な音楽文学」を組み合わせてひとつの作品にしたというところにあるのかもしれません。

 

 

探偵役は音楽講師の峠洋介ですが、主人公はその洋介に師事する香月遥
こうしたキャラクター配置の仕方は、観ている者へのトリックとなっており、ミステリの手法として興味深い部分はあります。何しろ観客はの視点で物語を観てゆき、洋介さえも容疑者として疑うことになるからです。
同時にこれはの見聞きしたことや行ったことはすべて観客も共有していると思わせてしまう構成でもあります。

 

残念なのは役である橋本愛の演技。
火災で全身を大火傷し、皮膚の全移植を経てのリハビリ。私は過去に蜂窩織炎に罹り、歩行できなくなったことがありますが、「歩けない」とはあのような動きではありません。また、過日にブログでも書きましたように昨年末には肋骨を折り、立ち上がれなくなりましたが、そうした経験をしていると、どうしても不自然な部分が感じられてしまうのは残念でした。

 

逆にやその従姉妹である片桐ルシア、それぞれの幼女期を演じる子役は自然さを感じられ、素晴らしい演技でした。
幼女時代のシーンが冒頭を飾り、それから年月を経て高校時代に…という流れである本作では、そのギャップというか、差のようなものを強く感じてしまい、映画として大きなダメージになっている気がしました。

 

 

また、個人的にはラストはの演奏は成功しなくても良かったのではないかと思いました。
この辺りは文学的展開に於ける趣味の問題であって、映画の良し悪しとはあまり関係がありませんが、もしここで演奏を成功させ優勝を獲得する展開にするのであれば、もうひとつ捻りがあっても良かったのではないか、そのほうがラストの“押し”になったのではないかという感があったのです。そうすることで洋介の「ルシアに戻る」という台詞が活きてくるのではなかったか、と。

 

 

「ところで
 シオンさんは謎解きはできたの?

 

えーとですね…。

 

以前に『推理作家ポー 最期の日間』を観たとき、次のようなことをブログに書きました。

 

【過去ブログより一部抜粋】

推理作家ポー 最期の5日間
http://blog.hangame.co.jp/agc_tailltea/article/39777160/

 

要するに私の中にいる別人格です。妄言と思う方はスルーしていただいて結構です。

 

そんな彼はほぼ全てを見抜いていました。
彼はこう言いました。
「疑わしくて、動機もあるのは弁護士か新社長さんだよね。火事もその人の放火だとするならば事件はそれだけのことだと思うけれども、もしあの火事が別件だとしたら、もうひとつねじれた事件が起きていなければおかしいよ」

 

私は彼にこう訊きました。
「ねじれた事件?」

 

「出火について何も詳しい話が出てこないから何とも言えないけれども、お爺さんが死ぬよりも前に家に侵入して火を付けることができたり、遺言のことに触れたりするのは、家族以外の人には難しいと思う。火事が事故なのか事件なのかはわからないけれども、階段や杖の事件とは別だという可能性はあると思うんだ。もしそうだとしたら、階段や杖の事件は遥さん人を狙っているのは間違いない。狙われる理由は何だと思うかな」
「遺産相続のことしか考えられない。でもピアニストへの道が閉ざされさえすれば遺言は無効となるから殺す必要まではない」
「確かにその通りだよ。でも、もし僕が犯人だとしたら、次は絶対確実に遥さんの息を止めると思う。だって、もうじゅうぶんに警戒させちゃっているからね」
「でも、それだと本人に目撃される。失敗したときのリスクが大きい」
「まぁそうだけれどもね。…ところで…」

 

彼は私に問いを振ってきました。

「…ところで、何でお母さんは狙われたんだと思うかな」

彼の質問に私はこう答えました。
「ピアニストになることには、遥よりも母の悦子のほうが積極的だった。しかも、話には出てこないが常識的に考えて授業料は彼女が出しているはずだ。つまりパトロンの悦子がいなくなれば遥はピアノを弾けなくなる」

 

彼は少し笑ってこう答えました。
「それはちょっと違うと思うよ。もしお母さんがお金を出していたとしても、そのお母さんがいなくなっても授業料が出せなくなるわけじゃないし、先生が降りるかどうかも先生次第だよね。つまり、それだと説得力がないかな」
「じゃあ、ねじれた事件って…」
「お母さんの事件は弁護士じゃないし社長さんでもない。お母さんはそこで何かを見たか聞いたかしたんだよ。もちろんそこにいるのは弁護士さん達じゃない。“ねじれた事件”が起きていたんだよ」

 

手塚治虫『ブラック・ジャック』やスペイン映画『私が、生きる肌(原題:La piel que habito)』でさんざん使い古されてきた古典的トリック。
本作にもそのトリックが含まれているだろうとは序盤の展開で読んでいましたが、それがこんなところで出てくるとは思いませんでした。
ねじれた事件」…それは彼のダブルミーニングの表現だったようです。

 

 

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あらしのよるに 〜きずな編〜

 

『あらしのよるに 〜ひみつのともだち〜 シアターセレクション 〜きずな編〜』を観てきました。

 

あらしのよるに 〜ひみつのともだち〜 シアターセレクション 〜きずな編〜
http://www.arashinoyoruni.com/

 

テレビ放映版は未視聴ですし、2005年の杉井ギサブロー版の映画も観ていません。
原作も未読ですし、さらには前作『あらしのよるに 〜ひみつのともだち〜 シアターセレクション 〜出会い編〜』も観ておりません。
本作はテレビ版の再構成だそうですが、その辺りもまったく知らずに観に行った次第です。

 

ですが、冒頭で前作『〜出会い編〜』のあらすじは紹介され、だいたいの流れは理解できました。

 

 

再構成とは感じさせないまとまり感が好印象です。何よりも安心して観られるという作りが心地よい。人畜無害なCGアニメといえばディズニーピクサーが代表として挙げられますが、そんなディズニーピクサーよりも安心して観られる。というよりも、この全体を覆うゆったり感はディズニーでは作れない気がします。もともと「動くこと」を第一に掲げてアニメーション黎明期を駆け抜けてきたディズニーを思うと、決して激しい動きや派手なCGシェーディングを目指しているわけではない本作はまったくの別ベクトルを向いているように感じます。

 

しかし、ゆったりした雰囲気とは言っても物語には起伏があり、起承転結もあります。案外こうした作りは難しいと思いますし、そうした意味においては非常によくできた構成であると言えます。

 

 

さて、冒頭のあらすじで描かれる前作『〜出会い編〜』は、即ちヤギのメイとオオカミのガブとの遭遇、そしてお互いの種族の仲間との壁を懸命に築く、相関図としては比較的単純な展開でした。
本作『〜きずな編〜』は、そうしたふたりの秘密が仲間に知られ、そこに生じるある種の対立と、それでも友達という関係をどう保っていくのかという葛藤を描いています。

 

しかしそれに留まらず、本作はさらに高い次元のテーマを提起しています。
それは後半に登場するカワウソのタオが問う「ともだちとは何か」というものです。
ヤギもオオカミも群れを形成する動物ですが、カワウソは単身で生きていきます。仲間と呼べるものは家族くらいのものであり、「群れ」という概念がありません。ヤギのメイとオオカミのガブが一緒にいることは勿論、そもそも「ともだち」という言葉さえも理解できない存在なんですね。

 

タオのこの質問に答えられる人はそうそういないでしょう。何故ならば、人間もまた基本的に「群れて生きる種族」であり、必然として「仲間」という概念が既にあり、その一概念として「ともだち」があるからです。
私がこの映画を観て素晴らしいと感じたのは、単に子ども向けの作品で終わらせず、大人に向けた哲学的な問いを投げ掛けている点を評価したからです。このタオの質問は、むしろ大人に対して投げ掛けられている非常に高次元の問いなのです。
そういう観点で、タオは本作における、もうひとりの主人公と言ってよいと思います。

 

 

メイを気遣うが故に、ろくに食べてもいないガブ。そんなガブに魚を渡すタオ
そこに生まれた奇妙な関係は、「群れ」という概念を持たないカワウソのタオにも、ある種の感情を芽生えさせることになります。
追手から逃れるために、遥かな山を目指すメイガブ。川から離れることのできないタオ。「きずな」というものを一度誕生させたタオの心には、それまで感じたことのない「さびしさ」が沸き上がる。大人であればそれは「せつなさ」と呼ぶもの。
「また会える」という言葉を以って別れることとなるタオというキャラクターは、彼を主人公としたスピンオフを観たいと思わせるほどに魅力的でした。

 

 

喰う者と喰われる者とがひょんなことから仲良くなってしまう。じつのところ、この主題は古今東西、枚挙に暇のないものです。
先日、「グルメ/お酒」カテゴリで取り上げた「ツーバイツー ナチュラルレモンカードビスケット」にある物語も、そのひとつと呼べるでしょう。

 

ツーバイツー ナチュラルレモンカードビスケット
http://blog.hangame.co.jp/agc_tailltea/article/40382746/

 

 

     ジョージと竜の物語

 

     その昔、遠い遥かな地にジョージという、とても勇敢な騎士がおりました。
     これは、王国に広く語り継がれている、彼の勇気と心のおはなしです。

 

     竜がおりました。その体は決して大きいとは言えませんでしたが、
     それはそれは凶悪で、しかもいつもおなかを空かせていたのです。
     村人たちは竜を恐れ、自分たちの牛や羊を差し出すことで
     暴れ出すのをおさえようとしましたが、それではとても足りません。
     さらにたくさんのものを供えるために、王国すべての人たちが
     担ぎ出されることとなったのです。

 

     そんなある日のこと、王が大切にしていたたったひとりの美しい娘が
     目を付けられてしまいました。
     王は村人たちに声をあげて叫びました。
     「お願いだ、姫を助ける方法を何としてでも考えてほしい」
     しかし、村人も自分たちの子どもを狙われていたのです。そんな中では
     誰ひとりとして、年老いた王の願いなどには耳を貸そうとはしませんでした。
     そしてそれは、姫が、銀のベルトや美しいドレスとともに儚くも
     消えてゆくということを意味していたのです。

 

 

     姫は泣きながら、竜の棲む洞窟へと向かいました。
     そこに、馬にまたがる勇敢な若者が現れたのです。

 

     その騎士、ジョージを見て姫は言いました。
     「あなたはここからすぐに逃げて下さい、死ぬことになるでしょう」
     しかしジョージは首を横に立てには振りませんでした。
     そんなふたりの声は、眠っていた竜を起こすこととなりました。
     洞窟の奥から、竜の吠える声が轟きます。

 

     これはあぶない。ジョージはとっさに槍と盾を構え、
     竜の鳴き声の響く方へと向かいました。
     彼の勇気は、そのまとう鎧とともに奮い立ったのです。
     こうしてジョージと竜の戦いが始まりました。

 

     そんな最中、姫の身に付けていた銀のベルトが
     に目掛けて投げ込まれました。そしてそれは竜の首に

     ぴったりはまり、首輪となってしまったのです。
     「やったわ!」
     姫は声をあげるが早いか、瞬く間に竜はおとなしくなって
     しまったのです。

 

     彼女は小犬と散歩でもするかのように竜を引き連れ、
     その凱旋には村人たちから歓声があがりました。

 

     それからのこと、竜は姫の友達になり、本当の小犬のように
     どこでもついて行きました。
     もう銀のベルトもいりません。絹のような紐でも問題はなかったのです。

 

     いかがでしょうか。
     もしあなたが敵だと思っているその相手を友達と思えるならば、
     それは本当に友達になるでしょうね。

 

※この物語は、一般には「聖ゲオルギオスの物語」と呼ばれているもので、
  竜を村に引き連れるのはゲオルギオス(ジョージのギリシア名)であり、
  彼はその竜の征伐の条件として村人たちにキリストへの信仰を訴え掛けます。
  王はこれを受け入れず、ゲオルギオスと姫は処刑されるというのが本来の物語です。

  宗教的な聖人物語としてはともかく、

  人畜無害とは言い難い内容と考えるのが概ねでしょう。
  上記に挙げたビスケットの箱に書かれている物語も
  当地に伝わる異聞ではあるのでしょうが、
  本来の伝承から毒気を抜き、子ども向けに改めたものと言えます。

 

しかし、それでも本作『あらしのよるに 〜ひみつのともだち〜 シアターセレクション 〜きずな編〜』が優れているのは、単に「ともだちは良いもの」「ともだちを大切に」という道徳論に終始せず、「ともだち」という言葉自体について考えさせる要素を盛り込んでいるところにあります。
何となく判ったようなメイガブ、そしてタオではありますが、じつのところ明確な定義を導き出しているわけではありません。「こうなんだよ」と答えを出してしまえば、結局は道徳論に留まってしまうのは目に見えています。つまり観ている者に考えさせているんですね。
恐らくはこの映画を観た多くの大人は、深く考えもしないでしょうし、或いは曖昧に納得してしまうかもしれません。しかし、もし子どもがこの映画を通じて何かを感じているのだとすれば、それはその子どもにも負けている。そんなふうにも感じます。

 

ヤギの長老は、ガブと付き合うメイを諭していますが、これは単なる保守思想に基づく言動ではありませんでした。
彼は頭がかたいわけではなく、群れ全体における保安というプライオリティを念頭に置いています。仮にガブメイだけではなくヤギの群れすべてと仲良くなれたとしても、それは群れの仲間すべてがガブを受け入れるという意味にはならないし、ましてガブの仲間がどうであるかは全く別の話になってきます。そこまで考えたとき、本当にガブメイが「ともだち」であったとしても ─ 恐らく長老はメイのいうこと自体は信じているのでしょうが ─ なお、群れの安全が重要であるという結論に到り、メイガブを引き離そうとしていたのです。つまり長老は中立的には考えているのですね。
こうしたロジックも、子どもには難しい。恐らくは(言葉は知らないでしょうが)保守的なオトナとして、長老を見ることになるかとも思います。

 

それでも大人であるならば、そんな長老の言動を読み解き、さらにはタオの問いを真正面から受け止められるようになりたい。
その暁として、メイガブの旅の行き着く先があるのでは。そんなふうに感じます。

 

 

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