タルティーン司令部戦略課室長日誌

ここだけで読める、戦略課の秘話その他。

映画の記事

平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦

日、『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』を観てきました。

 

平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊
http://www.superhero-movie.com/

 

予想外に面白かった。

 

本作はそのタイトルが示す通り、昭和ライダー平成ライダーとの戦いを描いた作品です。
『仮面ライダー』石ノ森章太郎がデザインした異形のヒーローで、1971年にテレビシリーズ第作目が登場したのをはじまりに多くの派生作品を生み出しており、一般に1988年の『仮面ライダーBLACK RX』までが昭和ライダー、設定やデザインを一新した2000年の『仮面ライダークウガ』以降が平成ライダーと呼ばれています。
ものすごーく大雑把に言ってしまうと、「仮面ライダー」と言って現代っ子世代のイメージするもの平成ライダーオジサンのイメージするもの昭和ライダーということです。

 

そして、これまた大雑把に乱暴に言ってしまうと、「昭和」世代のファンにとって平成ライダー受け入れがたい、認められない、というような雰囲気もあったりします。カタルシスに乏しくなったと考える人もいるかもしれません。
真に原理主義的なファンには、1973年の『仮面ライダーVまでしか認めないという人もいるほどです。この理由は、恐らくはそのデザインにあると思われます。

 

逆に「平成」世代にとって昭和ライダーダサく見えるかもしれません。映像技術的な部分で古く感じられるのは仕方がないにしても、デザインがいかにも着ぐるみっぽいというのは現代にリメイクされようと変わるものではないため、避けられません。
また、これも映像技術と関わる部分でもあるのですが、変身シーンやギミック等も今の時代から見ると貧弱であり、そうした印象が現代に受け入れづらいというのは理解できなくもありません。

 

設定自体が大幅に変更され、世界観も刷新されたことから、単にデザイン上の親和性にとどまらず、物語上に於ける繋がりも「昭和」と「平成」の間には大きな乖離があります。
この結果、テレビスペシャルや劇場版映画で「昭和」同士、もしくは「平成」同士が共闘するような作品は作られましたが、両者がともにあるという作品はゲーム等を除いてこれまで作られることはありませんでした。

 

しかしその一方で、古参のファンの中には「昭和」が今の世に蘇ってほしいと考える者や、「平成」と戦ったらどうなるだろうと考える者もあったと思います。
また、「平成」ファンの中にも、『仮面ライダー』シリーズの原点である「昭和」にある種の感情を抱く者があったかもしれません。
そういう意味では、本作は待望の映画作品であったとも言えます。

 

 

本作に於ける戦いの構図は意外と複雑です。
まず、いわゆる正義のヒーローとしてのポジション平成ライダーがあります。
そして、悪のポジションとしてバダン帝国があります。
これに対して昭和ライダーのポジションを説明するならば「もうひとつの正義」となるでしょうか。

 

「意味がわからないよ

 

世界設定として、本作にはいわゆる地球空洞説のようなものが用いられています。
厳密には地球の内側が物理的に空洞になっているというよりも、黄泉の世界が地球の表面を反転させた次元に広がっているというもののようなのですが、バダン帝国はその結果、本当の地上を求めるべく、その表裏を反転させ、人類を滅亡させることを企みます。

 

平成ライダーは、このバダンの目論見を阻止すべく動き、バダンに狙われている少年シュウの保護に動きます。

 

多少ネタバレになりますが、昭和ライダーバダンの計画を平成ライダーよりも先に把握しており、バダンが動き出した引き金となる原因の一端が平成ライダーにあることを突き止めています。
シュウの正体も知っているために彼を奪還するとともに平成ライダーを始末するという動きをします。
設定としては少々強引なきらいも感じられはしますが、平成ライダーの抱える問題を掲げているあたりに「平成」にはない「昭和」らしいカタルシスを感じることもできるかもしれません

 

ともあれ本作には、かような三つ巴的な要素が存在します。

 

「それだと、
 物語として複雑過ぎないかな

 

複雑ですね。
この構図は小さい子には難し過ぎかもしれません。映画も、物語よりもバトル中心に重きを置いているため、大人でもわかりづらいと思います。

 

ですが、この手の特撮ヒーローものは、むしろ「観て楽しむ」という類のものですので、そこは素直にバトルを楽しむ作りであるのは正解な気がします。
いちいち細かいことには気にしないで、昭和と平成が戦い合う姿に胸をアツくするのが本作の観方だと思います。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

序盤の演出はほとんど「平成」的な展開です。
昭和」目的で観に来る人はダレてしまうかもしれません

 

一方で、戦いの行方は中盤までは、ほぼ「昭和」優勢の流れです。
平成」世代には「何だこれ」と感じてしまうかもしれません

 

でも、本作の面白さは後になるほど羽目を外してテンションアップしていくところです。この料理の仕方に、「昭和」と「平成」をうまく使っている感じがしました。
平成」の醍醐味は何と言ってもそのギミックでしょう。変身アイテム等は「昭和」からの伝統ではありますが、特撮技術が飛躍的に向上した「平成」では、ロックシードを用いることで中空に変身コスチュームが出現し、これが変形しながら装着される演出が行われます。
この見た目の派手さをさらに発展させ、敵のライダーとして仮面ライダーフィフティーン(以下、フィフティーン)という、平成ライダー15人に変身可能なキャラクターが登場します。
フィフティーンロックシードを用いることで、ほかの平成ライダーへとアームズチェンジを繰り返し、変身シーンの派手さは一層エスカレートします

 

ところで、このロックシードというギミックを「昭和」に転用したらどうなるか。
ここで私が「こんなネタまで出て来たか」と驚いたものが仮面ライダーへのアームズチェンジ中に頭突きをしたシーンでした。
このネタがわかる人は確実にファミコン世代です。かつてデフォルメされたショッカーの町や国で戦いながら進んでいく『仮面ライダー倶楽部』というゲームがあり、これは体当たりでポコポコ突きながら戦うというものでした。

 

仮面ライダー倶楽部

 

 

平成」も黙ってはいません。タイトルに「スーパー戦隊」とある伏線が終盤になって顔を表します。
敵の総大将であるバダン総統が巨大な骸骨恐竜に変身。ここに現れるのは…、もちろん獣電戦隊キョウリュウジャーガブティラ
レッド変身ダンスもあるので、キョウリュウジャー好きのライダーファンはこれだけでヒートアップしてしまうでしょうね。

 

さらに号”つながりで出てくるのは烈車戦隊トッキュウジャートッキュウ

 

ちょっと待て。
もしかして今期のスーパー戦隊の企画って、
本作と含めて計算されていたんじゃないだろうな…?

 

知らない人のために少しだけ紹介しておくと、『烈車戦隊トッキュウジャー』は今期のスーパー戦隊シリーズ作で、その名の示す通り鉄道がモティーフになっています。
変身するときは地上に白線が現れて駅のアナウンスが鳴り、自動改札を通ってメカに搭乗。その内部では鉄道LED電光板がメッセージを表示する。

 

正直、『烈車戦隊トッキュウジャー』のバカバカしさはどうかと思っているのです。
こういうネタをタツノコのアニメでやるならばともかく、実写ヒーローものでやるもんじゃないだろう
そう思っていました。

 

でも、本作を観て思いましたよ。
もう好きにやってくれ。(笑)

 

ええ、映画でも好き放題にやってくれました。
ガブティラキョウリュウジャーレッシャーに変形し、さらにデンライナーと合体。ここまでブッ飛んだネタを展開されたら爆笑せざるを得ません。私の負けです。(^^;;

 

ところでメカの足部に割り当てられて文句を言うシーンがありましたが、「昭和」世代的には『大戦隊ゴーグルファイブ』とか、割とふつーに見られたものです。
そんな訳で、こんなことに不平を言う「平成」が「昭和」から説教されるのは、さもありなん…かなぁ、等とも思ってしまいました。

 

「それで、
 「昭和」と「平成」のどちらが勝ったの?

 

じつはこれ、投票で決定するという、変わった方法で結末が作られました。
公開初日にラストが決定されるというシステム上、映画は本が撮られ、そのうちの本が正式に上映されるというものでした。
昭和」が1386281、「平成」が1387041なんと760票という僅差で「平成」の勝利ルートが確定しました

 

ですが、先述のようにバトル的には「昭和」の優勢であり、ガチンコで戦ったら「昭和」という印象を出していますから、必ずしも「昭和」ファンが難色を示すようなものではないのではと思っています。

 

 

本郷猛神敬介ZX村雨良が当時のキャストのままで登場し、「平成」とともに変身シーンを披露するなど、まさに夢の競演と言えますし、細かいことに頓着しなければ楽しめる映画だと思います。

 

 

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LIFE!

4月1日、『LIFE!』(吹替)を、
4月7日、『LIFE!』(字幕)を観てきました。

 

LIFE!
http://www.foxmovies.jp/life/

 

構図の美しさが印象的な作品。

 

鑑賞直前になって知ったのですが、本作はジェームズ・サーバー(James Thurber18941961)の短編を原作としており、過去にも『虹を掴む男』のタイトルで映画化されております。

 

「西田敏行主演のあの映画?

 

『虹をつかむ男』(日本、1996年、山田洋次監督)

 

そっちじゃなくて

アメリカ映画のほうです!(汗

 

『虹を掴む男』(アメリカ、1947年、ノーマン・マクロード監督)

 

主人公ウォルター・ミティは空想癖があり、夢の中ではまさに“物語”の主人公、ヒーローを演じている。しかし現実の彼は冴えない男。
そんな彼が成行きから事件に巻き込まれ、夢の世界と同様に冒険を繰り広げることとなる…というものが、あらすじになります。

 

「日本のマンガやゲームにも
 よくある話だね

 

まぁそうですが、原作は今から70年も前に書かれていますから、それらのマンガやゲームよりも遥かに先に出されているものになりますよ。
先述の映画にしたって1947年の作品。60年以上も昔になります。

 

今回の『LIFE!』は舞台を現代、より正しく言うと2000年代の実在雑誌社に置き換えて翻案したものとなっています。
先述のマンガやゲームと言い、今回の映画といい、このプロットがいかに普遍的なものであるかを物語っていると言えるかと思います。

 

「実在なのに2000年代って、
 曖昧な言い方に思えるけれども

 

モデルとなっているのは写真誌の代表的な存在でもあったLIFE誌です。
本作では紙媒体による出版が廃刊となり、オンライン版に移行する時期を舞台としています。
しかし実際のLIFE誌は2000年に月刊体制をやめ、その後2007年までの週刊フリーペーパー時代を経て休刊に到っています。
劇中のLIFE誌は少なくとも週刊誌では無さそうな描写なのですが、Googleウェブ百科事典が成熟していることなどを考えるに、実在雑誌を登場させつつも、必ずしも実在のそれに準拠しない、並行世界での物語として設定しているのかもしれません。

 

なお、先述のようにジェームズ・サーバーの短編を原作とし、1947年の映画のリメイクにあたりますが、単に設定を変えただけでなく、物語自体も基本的に別物となっています。
原作のプロットや登場人物をもとに、大胆に作り直した作品と捉えるほうが正しいかもしれません。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

本作のウォルターLIFE誌の写真管理部という設定です。
最終号の表紙に使うはずのネガが見当たらず、彼は写真家のショーンを捜してネガのありかを聞き出すべく旅に出ます。
そうした中で、空想の中での自分に勝るとも劣らぬ冒険をすることとなるのです。

 

ここで気付くべきなのは、本作のウォルターは、別にくだんのネガを見付けようと見付けまいと、ウォルター自身の査定には基本的に何ら関わりがないということです。実際、本作のラストでは、ネガの提出は最終号の印刷に間に合いましたが解雇は覆りませんでした。
最初の旅路はともかく、解雇の報せが届いて社に急行した後には、ウォルターもそのことに気付いていたはずです。ですから、何も危険な旅に出ずとも、ネガのことなど忘れて放置してしまっても構わない。そういう選択もあったのでした。

 

それでもウォルターはネガ探しのために回目の旅に出ます。
回目の旅はショーンの自画像に誘われ、シェリルの幻影に背中を押されたという部分はありました。
しかし回目のこの時にはすでに自らの空想癖などとは決別し、自らの意志で旅立ちます。「I am alone(僕はひとりぼっち)」という旅行日誌は、彼が回目のときとは違うから書けるものなんですね。

 

 

ところでウォルターが空想癖を抱えているということから、どこからどこまでが現実で、どこからが空想なのかを見誤る気がしています。
回目の旅の印象的なシーンに、アイスランドの火山地帯をスケートボードで滑走するというものがあります。これは果たして空想なのでしょうか、現実なのでしょうか。

 

旅立つ前のシーンで、シェリルの息子にスケボーを教える場面があります。ウォルターはひ弱そうに見えるにも関わらず、見事な技を彼に見せて驚かせます。
その直後にウォルターが空想から目覚めるため、このスケボー自体も空想に思えてしまいます。

 

でも、本当にそうでしょうか?

 

注意すべきは、ウォルターには空想癖はあっても虚言癖まではないという点です。
ウォルターが駅のホームでビル爆発の救出劇をうたったのは「空想」でした。
シェリルに、彫刻を造ったのも自分だと言ったのも「空想」でした。
しかし、それらは口に出したものではないのです。

 

実際、ウォルターは噴火から逃れ、無事に生還しています。
そして、度目の旅で冒険譚について確認をつれたときも、これらを否定していないんですね。
ということは、ヘリから飛び降りたこと、サメと戦ったこと、スケボーで滑走したこと、噴火に巻き込まれながらも九死に一生を得たことなどは空想ではなく、ウォルターが実際に体験したことになります。
逆に言うと、これらの想像を、もとい空想を越えた体験をしたからこそ、度目の出発に到ったのだと思います。そうでもなければ、サメに襲われたあたりで「何で俺はこんなところでこんな目に遭っているんだ」とか「もう嫌だ、死ぬくらいならば写真のことなんて忘れよう」などと考えるのではないかと思うのです。

 

そう考えると、仮に〆切に間に合わずとも、或いはLIFE誌が廃刊となった後であろうとも、ネガが見付かるまではどこまでも旅を続けたのではないか。そんなふうにも感じます。
ネガを紛失した原因の一端は間違いなくショーンにありました。しかし、ショーンにしてみれば、自らの身を賭して写真というものにすべてを注いでいるわけですから、財布を捨てたなどと言われて黙っていることなんて出来ようもありません。
それでも憤慨せず、ショーンが少し寂しそうに返事をするに留まったのは、ヒマラヤの極地までやってきたウォルターに、そうしたものを感じたからではなかったからではないでしょうか。

 

 

そんなふうに考えさせられる本作は、とにかく全編、どこを切っても素晴らしい構図でした。
オープニングから印象的で、背景にタイトルやスタッフ名、あるいはキャプションが書かれ、モーフィングを経て場面転換される。
特に印象的だったのはシェリルの幻影がギターを弾き語りし、背中を押されたウォルターがヘリコプターに乗り込むシーン。予告編のときから「何でこんなところにギターを弾いている人がいるんだろう?」と思いましたが、そうした疑問を抜きにするほど画的に、そして詩的に美しく感じていました。

 

 

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LEGOムービー

22日、『LEGO® ムービー』を観てきました。

 

LEGO® ムービー
http://wwws.warnerbros.co.jp/lego/

 

これはどう評価したらいいんだ…。

 

レゴとはご存じの方も多いとは思いますが、世界的な玩具でもあるレゴブロックのこと。つまり本作は、そのレゴの世界を描いた映画になります。

 

レゴの世界の映像化作品自体はかなり昔から存在し、オフィシャルやファンの創作など無数に誕生しています。
その中には実際のレゴを用いてのストップモーションアニメ作品など、力作、佳作、怪作など色々ありますが、本作『LEGO® ムービー』DCG作品になります。要するに仮想上でレゴを組み立て、これをアニメーションにしています。
このように紹介してしまうと、安易に制作されたようにも思えてしまいますが、下手なCGアニメ作品よりもはるかに手間の掛かる開発をしています。何故ならば、本作に登場するほとんどが、実際のレゴに存在するブロックを組み合わせることで生成されているからです。
具体的には建物や自然風景はもちろん、炎や煙、雲、水面や波、水しぶき、爆発、レーザー光線といったエフェクトに到るまで、そのすべてがレゴブロックで形成されているのです。コンピュータ上で作るとは言え、そうした処理を行えるエンジンを組まねばなりませんから、想像以上に面倒な手間が掛かっていると言えます。

 

「ということは、
 登場するものは
 ほぼすべてが実際に組み立てられるということなのかな?

 

理屈の上ではそうなります。
また、そうしたことを踏まえての、レゴならではのギミックも登場します。
レゴとはブロック玩具ですから、組み替えることで別のモノに作り変えることが可能です。これを「レゴの世界ではモノを壊して別のものに作り替える術や文化がある」という設定に置き換え、劇中では建物や乗り物などがバラバラになって別のものに変形するといったシーンが何度も登場します。

 

ちなみにこうしたシーンの一部では、ブロックに数字が付されて表示されたりします。これはレゴ社で扱っている当該ブロックの管理番号です。マニアックなネタですが、「これらを揃えることで同じものが組み立てられる」ということを観ている者に示唆している訳ですね。

 

レゴのコアなファンにとって、気が利いていると感じるであろう演出としては、ブロックの傷みなどが挙げられるでしょうか。
例えば主人公のエメットの服のテクスチャですが、指紋の跡が付いています。

 

※ ただしアップやロングといったカメラアングル等によって

  数種を揃えているため、

  全てのシーンのエメットが同じテクスチャやモデリング、

  同じシェーディングを与えられているという訳ではないようです。

 

指紋の跡が付いているエメット。
http://wwws.warnerbros.co.jp/lego/images/gallery/LG-FP-228.jpg

 

またサブキャラの宇宙飛行士のヘルメットは顎の部分が割れています。
特にこのキャラクターは1980年代のレゴ人形をモデルとしているようですが、当時のレゴランド・宇宙シリーズのヘルメットは割れやすく、よくこんな感じになったものでした。

 

ヘルメットの割れた宇宙飛行士。
http://wwws.warnerbros.co.jp/lego/images/gallery/LG-FP-157.jpg

 

こうした小ネタが随所にちりばめてあり、レゴ好きの子どもや大人にはたまらない映画だとは思います。

 

「うん。
 それでも何か割り切れないみたいな言い方だね

 

センス的には『ガリバー旅行記』を髣髴させます。ジャック・ブラック主演の悪名高い映画です。私は好きでしたが。

 

『ガリバー旅行記』

(アメリカ、2010年、ロブ・レターマン監督)

 

主人公のエメット『ガリバー旅行記』ガリバーみたいに空気の読めない、ともすれば見ていてイラつきそうな奴。ろくに何もできないし、なのに成行きで英雄に仕立て上げられていく。
全編を通してのノリもアクが強く、こうしたセンスが馴染めない人にはお勧めしづらい作品だと感じたのです。

 

しかしそれでも海外では週連続位など、なかなかの評判の様子。
『くもりときどきミートボール』といい、こういうものがむしろ世界ではウケるのだなぁ…などと思っていたら監督が同じでした。

 

『くもりときどきミートボール』
(アメリカ、2009年、フィル・ロード/クリストファー・ミラー監督)

 

とにかく笑えます。おばかでグダグダな展開が続きます。
制作者のレゴへの愛はものすごく感じます。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

一番笑えたのは「おうちに帰りたいよ〜!」のシーンでしょうか。
そこにハウストレーラーが現れ、事故で路上に家を落とし、「そういう意味じゃなーいっ!!」、大笑いでした。
ちなみに英語版では「This is not mine!!(僕んちじゃない!)」のようですね。ギャグとしては原語のほうが面白いですが、「ちげぇよ!」的なネタが一般的な日本だからあのように訳したのかも…?
というか、自分の家だったら満足だったのか…?(^^;;;;

 

映画『レゴ®ムービー』特別映像「マン・オブ・プラスティック」
https://www.youtube.com/watch?v=pGA3UyesYKg

 

終盤、エメットはビルから奈落へと突き落とされますが、勘の良い人ならば彼がどこに落ちて行くのか、そして“ここ”がどこなのか、気付いていたかもしれませんね。
これまでのレゴの世界での物語は、すべて人間の少年エメットの、レゴでしていた遊びだったのです。
このメタ的な展開に、本作の本当のテーマが隠されていると言えます。

 

レゴのエメットはマニュアルが無ければ何もできず、考えたアイディアも「二段式ソファ」という、意味があるのか無いのかわからない代物でした。
レゴの世界から人間の世界へと場面が切り替わったことにより、これはそれまでとは別の意味をもつものになります。
つまりマニュアルとは「レゴのマニュアル」なんですね。レゴのパッケージを買い、箱を開けると入っている組立図面。これに従って組み立てれば、箱の写真と同じものが完成します。

 

レゴのマニュアルの例。

 

レゴのパッケージを、その図面のままに組み立てる。これは勿論レゴの遊び方のひとつです。
しかしレゴブロック玩具であり、他の組み方をすれば別のものが出来上がる。人間の少年エメット既成のレゴ模型を崩し、別の物を作って遊ぼうとしていました
このことに気が付くと、「二段式ソファ」のもうひとつの意味が見えてきます。私も幼い頃はレゴでよく遊んだものですが、色とか形状には頓着せず、おかしなものを組み立てて作ったものでした。
即ち「二段式ソファ」とは、自由な発想で組み立てたもの、という象徴だった訳です。

 

自由な発想で組み立てた例。
http://u.jimdo.com/www100/o/sb37c99077ee6b9eb/img/i70f5c115958aec71/1391430232/std/image.jpg
http://www.chocolatmag.com/2012/11/20/016-%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%81%A7%E9%81%8A%E3%81%BC%E3%81%86/

 

この“人間の世界”での設定が見えると、本作のドタバタで取り留めもなく、伏線的にも目茶目茶に感じられた理由が明らかになります。
子どもがレゴで遊んでいるとき、そこに何らかの物語を設定することはあっても、必ずしも起承転結がしっかりしている訳ではありません。ご都合主義的に展開させることもしばしばあります。
二段式ソファ」をレゴで組み立てても、その中には物理的には何も入れられません。しかし劇中のレゴのエメットは内部が収納スペースになっていると説明し、実際に潜水艦からの脱出に用いて内部に隠れました。「物理的に入らない」ではなく「レゴ人形の首をはめて置くことで中に入っていることにする」という、ブロック玩具ならではの「おやくそく」が通るのです。

 

レゴのエメットに於ける「やればできる」というありふれたメッセージよりも、むしろ「レゴで遊ぼう、マニュアル通りに組み立ててもよし、自由に作っちゃってもよし、出鱈目だって構わない!」という意味こそが込められている。そのように感じました。
ゆえに本作がドタバタでグダグダで伏線的にもどうなんだ…というような描写にはきちんとした意味があるのですが……、しかし、これを由とするか否か…。
そういう映画の作りってアリなのか…?(汗

 

 

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プリキュアオールスターズ NewStage3 永遠のともだち

20日、『映画プリキュアオールスターズ NewStage 永遠のともだち』を観てきました。

 

映画プリキュアオールスターズ NewStage3 永遠のともだち
http://www.precure-allstars.com/
http://www.toei-anim.co.jp/movie/2014_precure_allstars/

 

昨年、『ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス!』を観て、その良作ぶりに感銘を受け、これは是非とも次の作品も観なければなるまいと思い観て来たわけですが…。

 

残念ながらそれには到りませんでした。

 

まず、物語性に弱いです。展開が早く過ぎるきらいがあります。
もっとも、本作は「色々なプリキュアが出てきて楽しいな」的なスタンスの作品でしょうから、ストーリー性には重きを置いていないという捉え方もできるかもしれません。
それ故か、バトルにも重みが感じられません。本来であればもう少しタメや緊迫感が欲しいような場面でもギャグが展開され、その一方で無意味に冗長なバトルシーンが繰り広げられるといった流れもあったりと、バランスに欠けています。
また、メッセージ性はあるものの、その描き方は使い古されたチープなものですし、カタルシスの欠片も感じられません。

 

そして、丁寧さも欠けています。
『未来につなぐ希望のドレス!』では、その丁寧な作りに驚きました。劇中に登場するクラリネットの演奏で、運指が合っているという、相当に細かい作り込みがありました。
しかし今作『永遠のともだち』にはそうした丁寧さが感じられません。同様に楽器の演奏シーンで例を挙げるならばピアノを演奏する場面があるのですが、鍵盤と音がまったく合っていません。響いているのは明らかにメジャーコードなのに、B音D音F音という、コードネームでいうところのBm-5を叩いている。いくらなんでもこれは無いでしょう。こと、本作のターゲット層である女の子にはピアノを学んでいる子も多いと思われますし、こうした描写にはもう少し気を配ってもよいようにも思われます。

 

 

さて、本作にはユメタというバクようせいが登場します。ある意味ではユメタが本作の主人公であるとも言え、本作全体のカギを握っているキャラクターです。
ユメタは悪夢を食べるようせい、バクの子どもでしたが、まだ夢を食べる能力がなく、引っ込み思案な性格もあって、なかなか成長できません。
そんなユメタの母親マァムユメタを過保護に育て、ユメタに友達をと、世界の子どもたちを夢の世界に誘い、ユメタを喜ばせようとしています。
一方、人間の世界では子どもたちが眠りから目覚めないという事件が拡がりをみせており、この事件の原因であるユメタマァムのいる夢の世界にプリキュアたちが乗り込む…というものがあらすじになります。

 

メッセージ性としては過保護な親と子どもの自立、そして現実逃避と未来志向というものになるのでしょうが、描き方としては使い古された感もあります。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

マァムにしてみれば、プリキュアたちはユメタの平穏を脅かす存在であり、そんなプリキュアたちをも夢の世界に封じ込めてしまいます。
それぞれの夢は各々が幸せと感じる内容のものであり、しかも彼女らはそれが夢であることになかなか気付けません。なりたかったものになれた夢の世界で暮らす彼女たちは幸福で満たされていきます。

 

ですが、そのような中で違和感を抱くようになります。これは自分ではない。本当の自分ではない。
そうしたことから、これが夢であることに気付きます。
現実逃避という、幸せとは対極にある、つまらないものではないかと思い始めるわけです。

 

でも、じつのところ、夢の世界に逃げ込んでいるのはユメタマァム自身なんですね。
ユメタは引っ込み思案な性格ゆえに自分の殻を破れずにいるし、マァムはそんなユメタのためを思って、しかしユメタが望んでもいないものを与えている。
このことのみに着眼した構成であれば、案外よい物語になったような気がしなくもありません。

 

しかし、本作の本分はプリキュアが全員揃って云々というものであるため、このストーリーが希釈されてしまっています。
もっとも、前述のとおり本作の本分は飽く迄もプリキュアが全員登場することにそれ自体にあるのですから、それはそれで構わないとも言えます。

 

ですが、このプリキュアたちのバトルも大味な上に冗長であり、メリハリに欠けるきらいを感じました。
本作のギミックアイテムであるミラクルドリームライトも、これを使うべき明確な演出がなく、対象年齢を考えると、そのタイミングはわかりづらく、実際、劇場内の観客の子どもたちもライトを使っている子は見られませんでした

 

 

多くのプリキュアをスクリーンに収め込むという構成が難しいであろうことはわかるのですが、そのいずれもの描写も中途半端になっている印象があります。
この主旨の作品を作るのであれば、思い切って「プリキュアオールスターズ」という点にのみ特化させ、その部分だけでもメリハリを持たせられれば良くなったのかもしれませんが、無理にストーリーを注ぎ込んだ結果、どれもこれもしっかり描けなかったというものになったという気がします。

 

 

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アナと雪の女王

20日、『アナと雪の女王』(D吹替)を、
24日、『アナと雪の女王』(D字幕)を観てきました。

 

アナと雪の女王
http://ugc.disney.co.jp/blog/movie/category/anayuki

 

見どころ満載のミュージカル傑作。

 

そして日本語吹き替え版の出来がひじょうに秀逸です。
ミュージカルは原語でなければ…等という意見もあるでしょうが、そうした理由で本作を観ないのはあまりにも勿体ないと思います。
個人的には、むしろ字幕版よりも吹き替え版のほうに軍配をあげたいと感じています。訳し方がうまく、歌以外の場面でも原語よりも良い表現を選んでいるものが見られるからです。

 

本作はアンデルセン(Hans Christian Andersen18051875)の『雪の女王(原題:Snedronningen)』を原作とし、その物語の前日談という位置付けになっています。
『雪の女王』はこれまでにも様々な翻案がされており、特に絵本やアニメには枚挙に暇がありません。日本では2005年にNHKが制作した『雪の女王 〜THE SNOW QUEEN〜』が知られているでしょうか。
悪魔の作った鏡の欠片が少年カイの目に刺さることで彼の性格が豹変し、雪の女王は彼を氷の城へと連れ去ってしまう。幼馴染の少女ゲルダカイを探しに旅立ち、雪の女王の城を目指す…という物語です。
翻案作品によって細部に違いがあったり、オリジナルの展開が挿入されるなどしています。

 

本作『アナと雪の女王』は、この雪の女王がまだ人間であった頃の物語として創作されています。
しかし実際にはまったく独立したオリジナルの物語であり、原作にインスパイアされながらも大幅に改変した作品です。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

さて、前述のようにアンデルセン『雪の女王』を原作としながら、その実、内容はほとんど無関係と言ってよい本作ではありますが、その一方であまり語られている様子のないものとして、本作はアンデルセンのいくつかの作品からモティーフを引用しています
原作とされる『雪の女王』には、雪の女王の本名は登場せず、エルサという名前はこの映画でのオリジナルの設定ですが、私はこれはアンデルセン『白鳥の王子(原題:De Vilde Svaner)』に由来するのではないかと考えています。

 

『白鳥の王子』の主人公はエリサ(Elisa)という名の王女で、妃のいじめに遭った末、城を逃げることになります。
その後、魔女の疑いが掛けられ、処刑され掛けるも呪いが解けることで疑いが晴れる…というのが大まかなあらすじです。

 

映画『アナと雪の女王』の主人公はエルサ(Elsa)であり、ウェーゼルトン公爵に魔女呼ばわりされ、城から逃げ出します。
紆余曲折の末、冬化の魔法は解け、大団円を迎えるというモティーフは、恐らく『白鳥の王子』によるものだと思うのです。

 

 

また、アンデルセンとは関係ありませんが、モーツァルトのオペラ『魔笛』のイメージを強く感じました。
『魔笛』はよく知られているように物語の途中で善悪の存在が逆転し、全編を象徴する魔女の「夜の女王」が象徴的なアリアを歌います。そしてラストにはパパゲーナの死にパパゲーノが絶望するも直後に蘇生するという場面があります。

 

『アナと雪の女王』ではハンス王子が当初は味方として登場し、アナに協力的な態度を見せていますが、途中で一変し、じつは国を乗っ取るためにアナエルサを騙くらかし葬り去るつもりであることを明らかにします。
また、予告編などでもアピールしているようにエルサが城を抜け出し雪山を行き氷の城を築くシーンでは主題歌でもある「ありのままで(原題:Let It Go)」の独唱があります。さらにラストではアナがついに氷化し、エルサは絶望に到りますが、その直後に魔法は解け、アナは蘇ります。

 

『魔笛』オペラ(音楽学的にはジングシュピールに分類され、現代のミュージカルに相当する)であり、『アナと雪の女王』ミュージカル映画であるという点も含めて、両者には類似するものがあるように感じるのです。

 

 

ミュージカル映画としての質はひじょうに高いです。
そして、その邦語訳も極めて質が高く、訳詞者のこだわりが随所に感じられます。言葉としてきちんと訳されているのみならず、音韻も踏んでいますし、アニメーションの口の動きに合わせるという技も見せてくれます。
先述の「ありのままで」が良い曲であるのは多くの人が認めるところのようであり、映画館から出てきた観客がこれを口ずさむ様子を私も何度か見掛けました。

 

その一方で、私は「雪だるまつくろう(原題:Do You Want to Build a Snowman?)」がお気に入りです。
これも吹き替え版の歌詞が、より好き。「Do you want to build a snowman?」はそのまま訳すならば「雪だるまを作りませんか?」ですが、英語でいうところのLet'sweのニュアンスのある「雪だるまつくろう」にはアナのより強い想いが込められているように感じます。幼いアナ役の稲葉菜月の舌っ足らずな歌もハマっています。
実際、この歌は主題歌でこそないもののテーマ曲ではあるようで、ラストで大団円を迎えた後、終幕するまでのBGMは「雪だるまつくろう」のテーマなんですね。
ライトモティーフ的に解釈するならば、このとき、ようやくアナとエルサは一緒に雪だるまを作って遊べるようになれたわけです。

 

こうした音楽表現は戴冠式を迎えるシーンでのアナエルサデュオ「生まれてはじめて(原題:For the First Time in Forever)」にも見ることができます。
長い間、閉ざされていた王城がついに開かれる。アナは喜びでいっぱいです。しかしエルサは大きな不安を抱えています。
「生まれてはじめて」は明るい長調の歌なのですが、エルサの歌詞は並行短調。これにより人の立場や感情の差を音楽的に表現しているのです。

 

 

ところで台詞の言葉選びには、その脚本のセンスが映るものとなるのですが、私が吹き替え版を推す理由はこうした台詞のちょっとしたところにも気の利いた表現が感じられたからでした。
特にこれは良いと感じたものに、雪だるまのオラフクリストフアナと分かれて集落に入るシーン。オラフクリストフに忠告されたにも関わらず、その直後に村人の前に姿を現してしまいます。
このときの村人の反応。吹き替え版では「きゃー、雪だるまがしゃべったー!」英語では「It's livin'!」字幕版では「生きてる!」でした。私は吹き替え版字幕版も観て来たのですが、吹き替え版では大爆笑が起こっていたのに対して字幕版ではウケが今一つのようでした。
確かに英語のモンスター名にはLiving XXXXといったものがしばしば見られることから、英語表現的には「It's livin'!」になるであろうことはわかります。しかし、私も「きゃー、雪だるまがしゃべったー!」のほうが面白く感じます。こうした日本らしい訳し方は、やはり原語との多少の違いはあったとしても、それがギャグであるならば面白くなければ意味がないのですし、アリだろうと思うのです。

 

 

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