タルティーン司令部戦略課室長日誌

ここだけで読める、戦略課の秘話その他。

映画の記事

そして父になる

『そして父になる』を観てきました。

 

そして父になる
http://soshitechichininaru.gaga.ne.jp/

 

カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞し、世界が絶賛するだけあって、流石にいい映画です。

 

本作はあちらこちらで紹介もされていますし、内容については今さら改めて書くまでもない気もしますが、子どもの取り違えがテーマとなっています。小学校に上がる直前に発覚し云々…というものです。
お互いの家族の思いが交錯していく様子が描かれますが、激しい感情描写はほとんどなく、全体的にポートレートを見ているような美しささえ覚える作りになっています。

 

 

以下、ネタバレを含みます。

 

 

主人公である父親野々宮良多は大手建設会社に務め、それなりの地位を築いてきており、我が子もそうありたいと考えています。
この考え方自体は親として至極もっともなものでしたが、その子、慶多良多から見ると優し過ぎるとさう感じる性格であり、もどかしく思っていました。

 

そして事件は起きます。
慶多は自分の子ではない
良多「やっぱりそういうことか」と呟き、母みどり「何で気付かなかったのだろう」と言います。

 

では本当の我が子はどこへ。
取り違えられたのは電気店を営む斎木家で、その子は琉晴と名付けられていました。
その後、紆余曲折あって、お互いの家族間で話をしたり、子どもを交換して生活するようになります。
育ての親より生みの親。「血」を絶対とする良多にとっても、すじの通る話ではありました。

 

しかしそんな中で良多は次第に孤立していきます。
本当の子であるはずの琉晴野々宮家に馴染めない。みどりは、母親には色々と交換しなければならない情報があると言って、当初の琉晴の母ゆかりと交流を深める。そのどちらも良多には好かない話でした。
そもそも良多は、斎木家のような暮らし自体を認められませんでした。言うなればカーストのようなものを由としていたのです。

 

慶多と別れるとき、良多はカメラを譲ろうとしますが、慶多は「いらない」と答えます。
そんな慶多斎木家に渡りしばらくした日。良多はカメラに見慣れぬ写真があるのを見付けました。それは寝ている自分の姿。こんな写真を撮るのは…。
このとき、良多慶多が自分を父と慕っていたことに改めて気付かされました

 

「そして父になる」というタイトルは、良多がはじめて「父とは何か」に気付き、目覚めることを指しているのでした。

 

 

ですが。

 

確かに良い映画なのですが、この作品には決定的に欠如しているものがあると思いました。

 

「子どもを取り違える発端となった病院や看護師とか、
 そういう法的なことについてかな

 

いえ、それらは法的な時効や、良多が慰謝料を断るなどといったことで、一応は描かれて済んでいる話と言えます。
私が欠如していると感じているのは、子どもの視点がまったくと言っていいほど存在しないという点についてです。

 

取り違えに関する云々についてはひとまず置いておくとして、仮に実際にこのようなことになった場合を考えてみましょう。
劇中で病院側は「前例では100%交換ということになる」「子どものことを思うならば早いほうが良い」と言います。
踏ん切りが付くか否か、或いはお互いの話が結論を導き出せるかどうかといったことは別として、交換するにせよ、しないにせよ、それは「子どものためだ」と考えて親は答えを選択すると思います。

 

でも、「子どものため」とは言うものの、そこに本当の当事者である子ども自身の意思は、まったく存在しません。
そう、本当の当事者は取り違えを起こさせた看護師でも病院でも、或いは両者の親でもなく、例えばこの映画の場合であれば慶多琉晴なのです。

 

「でも、

 6歳の子には理解できないんじゃないかな

 

理解は難しいでしょうね。
劇中でも慶多には何も知らされず、琉晴も「何で?」と何度も訊き返していました。

 

でもですね、「理解できないのではないか」ということを考える時点ですでに大人目線なのだと思うのです。
もし自分が“当事者”だとしたら、やはり理解はできないとは思いますが、それでも知りたいと考えるでしょう。

 

いくつかのケースを考えてみます。
まず、説明をせずに交換をした場合。何が起きたのかもわからないまま、幼少の時期を過ごすことになります。無論、年齢とともにその意味を理解するようになるでしょうが、それは心的障害が解消されることを意味しません。悲しいことやつらいことによって心を病むのは大人も同じですが、子どもはそのことさえ知らずに苦しむのです。こう書いては難ですが、大人は自殺をする自由もありますが、子どもにはそんな選択肢は存在しません。逆に言うと、大人はそのことに甘んじていることにさえなるのです。

 

では、説明をして交換をした場合を考えてみましょう。しかしその説明は概ね子どもの理解できぬものだろうと思われます。概ね、説明をせずに交換をした場合と同じ道をたどることになるでしょう。ただ、その意味を理解したとき、幼少期のそれが何であったのか理解することになります。しかし、そのことに納得できるかどうかは当人次第という気もします。

 

次に、交換をしなかった場合。幼少期はなにごともなく過ごせるでしょう。親は多少ギクシャクするところがあるかもしれませんが、時間とともにもとに戻るとも思います。しかし大きくなったとき、自分を生んだ親が別にいると知り、悩んだり、本当の親を知りたいと考えるようになることは想像に難くありません。或いは、もっと早くに知りたかったと考えるかもしれません。

 

「それじゃあ正解なんてないじゃない

 

そう、この中に正解何などというものはありません。
何故ならば、これらの選択には子ども自身の意思が反映されていないからです。所詮は大人が主体のものに過ぎないからです。

 

私だったら、まず説明するでしょう。理解できるか否かはともかく、まずは説明するところから始めます。
そして、映画と同様に一時的な交換生活を何度か経た後に、子ども本人に選択させます。

 

良多がどう考えたかはともかく、琉晴にとって野々宮家おいしい肉料理の出てくるきれいな家ではあっても、つまらない無味な家だったのです。
そして琉晴の叩くピアノの音は良多にとって雑音でしかなかった。
慶多はピアノを弾いてはいたものの、その理由は「パパが褒めてくれるから」でした。ピアノが楽しいのではなく、褒められるからというのが理由だったのです。
良多は琉晴を褒められないし、琉晴は野々宮家がつまらない。このような環境が琉晴にとって良いわけがありません。

 

一方、慶多にとって斎木家楽しいところでした。父雄大は電気屋であり、おもちゃの修理はお手の物。それは慶多の目にはさながら魔法使いのようにさえ映ったかもしれません。
そして雄大ゆかりも、良多みどりと比べるといい加減で現金なところがありましたが、暖かみもあり、同じ目線で遊んでくれるおじさん、おばさんでした。

 

「ちょっと待って。
 もし子どもに選ばせるとしたら、
 親は、より楽しい環境を以て

 誘おうとするんじゃないかな

 

それはあると思います。
でも、そんな「小手先で作った楽しい家族」が、いつまでも続けられるはずがありません。そんなものは「家族ごっこ」に過ぎません。到底「父になる」こともできないでしょうね。

斎木家のそれは、作ったものではなく、それ自体が自然体です。良多が思い立ったように銃撃戦ごっこを始めたような、そんな程度のものでは無いのです。

 

「じゃあ、もしシオンさんだったら
 慶多であっても琉晴であっても
 斎木家を選ぶってこと?

 

それはどうでしょうね。
というよりも、その質問自体が極めて大人目線のような気さえします

 

慶多には年間野々宮家の子として過ごしてきた時間があり、琉晴にも年間斎木家の子として過ごしてきた時間があるわけです。
残念ながら私はそのどちらも経験していませんから「もし自分だったらどちらを選ぶか?」などという問いは解無し、ナンセンスです。

 

 

ここまでの話で、勘の良い方であればお気づきかもしれませんが、私はオトナというものを信用していません。オトナはどこまで行ってもオトナの目線でモノを語るからです。
劇中で良多慶多が自分の子ではないと知ったとき「やっぱりそういうことか」と呟きました。もし私が慶多で、かつ、この台詞を知ったならば、その日から良多を父とは認めなくなるでしょう
オトナの「子どものため」という言葉が嘘とまでは言わずとも、「子どものためだと思っているだけ」というのが概ねです。子どもの頃からあまり信用していないところがありましたが、年齢とともにその度合いは増していきました。
今では自分自身がオトナですから、そんな自分さえも信用していないところがあります。故に、そんな自分が子どもに信用されることもないと思っています。そんな私を信用して下さる小中学生のハン友さんがいるのは、本当に幸せなことだと考えています。

 

 

話がそれましたが、しかし『そして父になる』に子どもの視点を加えると話が煩雑になりすぎるでしょう。
シンプルに美しくまとめる意味で、良多を主人公にし、良多の視点で描いたことは正解だと思います。

 

ただ、私としてはこの作品を、慶多の視点でも描いてスピンオフにしてほしいと感じました。

 


 

この記事の先頭へ▲

舟を編む

20日、イオンシネマシネ・アーツ枠で映画『舟を編む』を観てきました。

 

『舟を編む』(日本、2013年、石井裕也監督)
http://fune-amu.com/

 

テーマとしては関心があったのですが、主人公の名前が駄洒落くさいことが嫌で、公開当時、観るのをやめた映画でした。
しかしあちらこちらでの映画評がひじょうによく、そうなると観なかったことが悔しくなり仕方がなくなってきました。
幸い、イオンシネマで再上映するという機会があり、これは是非とも観なければと思ったのでした。

 

とても面白かった。

 

本作は辞書作りの舞台裏、編纂の工程を描いた映画です。
あまり知られていない世界であり、こうしたものをテーマとして扱っているということがまず興味深く感じられます。

 

ちなみに日本語で「じてん」と言っても「辞典」「事典」「字典」と種類があります。
また、他の国には該当する語が見られないこともある「図鑑」といったものもあります。
劇中にも登場しますが、例えばゲームのキャラクターやモンスターを扱うなどといった特定分野を取り上げた事典もあり、よくよく見回してみればいかに日本人が「じてん」好きであるのかに気付かされます。

 

本作の物語の中心となるのは中型国語辞典と呼ばれる辞書作りです。実在する代表的なものには『広辞苑』(岩波書店)や『大辞林』(三省堂)といったものがあります。
やはり劇中に登場する台詞になりますが、『大辞林』は編纂し出版にこぎつけるまでに28年を要しており、ひじょうに時間と根気のいる作業です。
なお、世界最大の漢和辞典と称される『大漢和辞典』(大修館書店)は75年(!)も掛けて完成させており、まさに生涯を尽くして行う、大規模工事にも似た仕事であることがわかります。

 

本作の物語は1995年から始まり、2010年の発行に到るまでが綴られます。
Windowsで言えば、Windows95からWindowsの時代に相当することになりますね。当然、舞台の雰囲気も初期と終盤では違ってきますし、前述のようにPCで使われているソフトウェアにも変化があります。
しかし、それでもさらに先人の辞書はパソコンも使わずに完全な手作業で編纂していたわけですから、その労力には本当に頭が下がります。

 

 

本作のキーワードとなる台詞のひとつに「“右”という言葉を説明できるか」があります。つまり、辞書の見出し「」の語彙として、その説明文を書くことができるか、という意味です。
劇中でも語られますが、これはなかなか難しいです。

 

「でも、“上”や“下”、
 “前”や“うしろ”も難しいんじゃないの?

 

いえ、“左・右”は“上・下”や“前・後”とは比べものにならないくらい難しいのです。
何故ならば“上・下”や“前・後”は単純な物理学的に表現可能だからです。
地球上で説明することを前提としたとき、端的にモノが落ちる方向が“”であり、その逆が“”になります。
今、向いている方角、見ている方角が“”であり、その逆が“うしろ”なのです。
これに対して“左・右”は説明ができません。仮に「箸を持つ側が右」と説明しても、万人が箸を右手で持っているとは限りませんし、そもそも「箸」を知らなければ話にもなりません。
また、「箸」の項目で「右手に持つ」などと説明がされているとしたら、これは実質的に自己参照になります。ものの説明としては不適当なんですね。

 

用例採集」も本作のキーワードのひとつになるでしょう。
耳慣れない言葉ですが、簡単に言えば新語を集めること。辞書に収録されていない、或いはまだリストに載っていない語を拾い、その語の説明について纏めておくこと。
こうした辞書作りの背景を知ることができるのは、この映画の魅力であろうと思います。

 

 

そして、本作を紹介する上で触れておかねばならないものとして、パンフレットがあります。

 

『舟を編む』のパンフレット。

 

これは本気ですごいです。
恐らく私は、これを永久保存にすると思います。

 

一般的な映画のパンフレットにあるような、作品の解説、スタッフやキャストの紹介およびライナーノートやコメントといったものに留まらず、ページ数は127ページ(実際には130ページ相当)にも及びます。


極め付けは、初稿ではあるものの、映画の台本全文が収録されていること

 

 

実際の映画はこれを手直ししたものとなっているため、細部に違いはありますが、全文収録という太っ腹さには驚きました。


さらにパンフレットに使われている紙の一部は、劇中の辞書のそれの実物です。劇中、辞書の紙質にもこだわり、どのような手触りで、捲りやすさと丈夫さを兼ね備えた紙が良いのかが語られますが、それをスクリーンの枠を越えて現実に体感できるというわけです。

 

 

なお、上図の写真にもあるように、このパンフレットの表紙サイズ自体、劇中の辞書と同じものとなっています
映画それ自体も素晴らしいのですが、本作はパンフレットを揃えることで、より完成された、体感し、追憶できる映画作品として、いつまでも楽しむことができるのです。

 

 

この記事の先頭へ▲

テルマエ・ロマエ

 

『テルマエ・ロマエ』を観てきました。

 

 

よくできている、面白い。
原作の主人公が馬鹿馬鹿しくも生真面目ならば、映画も無駄に力を入れているという感じで、メタな意味でも笑え、自分としては期待通りという感じです。

 

 

序盤は原作にほぼ忠実。
中盤以降は原作を再構成した内容となっており、映画版オリジナルキャラクターにしてヒロインの山越真実が副主人公として主人公ルシウスを引っ張っていく展開となります。この辺りは原作単行本第4巻以降の展開を思わせますが、映画自体は原作単行本第2巻のあたりで製作が始まっており、むしろ原作連載側が映画を追い駆けているとも言えます。

 

ヒロイン・山越真実は漫画家志望の平たい顔族(現代日本人)であり、この辺りの設定からラストの展開は読めますが(キャラクター名自体が原作者ヤマザキマリ氏の名をもじったもの)、彼女が原作に於けるショールームの女性社員や芸者にして多言語堪能な小達さつきの役割に相当します。
ルシウスのタイムスリップの引き金に真実の存在を鍵とした設定はなかなか面白いです。また、原作とは逆にヒロインの側が古代ローマにタイムスリップしてしまうという展開も、この映画のファンタジー色を強めています。

 

 

第4の壁を破るメタなギャグも、なかなか気が利いています。
ルシウスのタイムスリップ時には謎のオペラ歌手が勇壮にアリアを歌うという演出が入るのですが、しばらくタイムスリップのシーンが無いと彼は寛ぎ始めてしまいます。突然タイムスリップが起こり、オーケストラの響きのに慌てて目を覚まし、着替えて歌い出す。一体こいつは誰なんだと突っ込まずにはいられない。物語上、まったく何の関係もない存在ですが、このオペラの音源は三大テノールとして知られるプラシド・ドミンゴ(Placido Domingo)。よくこんなギャグの、しかも完全に脇役的な演出に参じてもらえたものです。

 

また、多言語好きな私としては冒頭のラテン語字幕と日本語によるモノローグでもうメロメロなのですが、古代ローマでは日本語(に訳されているというメタ設定)でやりとりされます。これは構成上当然なのですが、これを逆手にとり、ルシウス真実とともに古代ローマに戻った以降は2人はラテン語で会話をしているという設定の上で日本語音声になる。このとき、スクリーン右上には「Bilingual」の文字が。
つまりはラテン語と日本語の二ヶ国語放送(?)で、音声信号は日本語が選択されているというメタジョークな訳ですね。これ、DVDやブルーレイになったとき、どうなるんだろう…。すごく気になります。
こういう場面で白けさせずに、むしろ観客を引き込ませるように演出するのは、じつは意外と難しい。それだけ、メタ部分も含めた世界設定がうまいということでしょうか。

 

さらに脇役のキャストが、ひじょうに原作キャラに似ているのも可笑しいです。
1カットしか出てこないキャラクターにも徹底的にこだわるキャスティング。こうした作り込みが、本作のクォリティをより高めています。

 

 

映画製作時の他メディアからの影響も窺えるのも、また楽しい。
原作にはない、現代日本で見聞した泡風呂を古代ローマで再現するというシーン。或いは、源泉の水質を調べるためにリトマス試験紙を作るという場面。これらから彷彿するは村上もとか氏原作のTVドラマ『JIN −仁−』です。
恐らく映画製作スタッフは、『JIN −仁−』にあった幕末に於ける現代日本の医療機器やペニシリン精製の描写から刺激を受けたのではないかと思います。

 

 

ネタはエンドロールにまで及びます。
本作には、原作にも登場したワニが出てきます。そして、キャストの中にしっかり「ワニ」という文字が。
マペット(人形)なのでしょうが…、その昔、『REX 恐竜物語』という映画があって、予告では主人公キャスト名に「REX」の文字があったのを思い出しました。
『JIN −仁−』TBS『REX 恐竜物語』松竹。いずれも『テルマエ・ロマエ』フジテレビ東宝とはライバル関係。色んなところでネタを振ってきますね。
そういえばTVアニメ版『テルマエ・ロマエ』の予告でもこんなことを言っていたような…。

 


「んー…、なんか『ノイタミナ』枠でフラッシュとは…、
 フジテレビ、冒険したな…」

 


「だからUstreamで特別編ラジオをやるそうです。
 文句があったらそっちで受け付けるそうなので
 間違ってもお台場でデモ行進とかしないで下さい。
 …っつーかもう観るなっ!!

 

「フジテレビでスタートだから間違っても観ないで下さい

 

「あ、それより『鷹の爪外伝 むかしの吉田くん』が
 MBSで放送されるからそっち観て下さい!

 

MBSって『JIN −仁−』TBSと同系列の民放じゃないですか。(^^;;;;;
お台場のデモ行進とかも当時の時事ネタ。しかもフジにしてみれば自虐ネタ。この辺りもメタネタの伏線として解釈すると、かなり計算した作りのように思えてきます。

 

 

久々に何度でも観てみたいと思える映画に出会えました。

個人的にはマルクス・ウェルスルキウスにも登場して欲しかったですが…、それでは物語の構成が複雑になり過ぎるのでしょうね。

 

 

この記事の先頭へ▲

ジャッジ!

20日、『ジャッジ!』を観てきました。

 

ジャッジ!
http://judge-movie.com/

 

とりあえず

エースコックのうどんが食べたくなった。

 

「何ですか、その感想は

 

何なのでしょうね…。
『魔女っこ姉妹のヨヨとネネ』と言い、最近の映画は即席麵業界と組むのがブームになっているんですか?(汗

 

 

えー、本作『ジャッジ!』はCM業界や広告祭をテーマとしたコメディ映画です。
ポスターの段階で私の観る気を減退させていたのですが、映画ブログでお世話になっている方が「伏線が凄い」と評されており、「物語の質を高めるは伏線」と考えている私は是非観に行かねばと思い直した次第でした。

 

ですが、残念ながらシオン的には「とりあえず及第点」と言ったところでした。

 

「そんなに悪かったの?

 

確かに伏線は張られているのですが、私としては伏線には、ある種の驚きが欲しいのです。「そう来たか!」とか「そこに話が繋がるのか!」といった驚き。
本作のそれは、明らかに伏線臭く、故に後の展開がそれなりに読めてしまいました。これは伏線としてプラス評価をしづらいです。

 

その一方で、別の驚きはありました。
本作に登場する広告代理店は「現通」と「博風堂」と言い、モデルとなっている会社があるとは言え、架空の企業です。もちろん本作の事件も架空です。
しかしCMとして登場する企業は実在のものであり、それが実名で登場します。映画が始まって早々、エースコックのCM制作現場というシーンが展開され、これには度肝を抜かれた思いがしました。
この他に丸井トヨタ等も登場。特にトヨタは実際に過去に映画祭に出展されたものが使われており、ものすごいスポンサー力を感じました。

 

もうひとつ驚かされたことは、劇中の半分近くが英語で展開される構成だった点です。ほぼ字幕が出っ放しです。
もちろん本作は日本の映画です。真面目な作品で、舞台が海外であったり、国際関係がテーマとなるようなものであれば、そうした作りも珍しくはありませんが、本作はコメディです。お笑いの映画です。そのようなジャンルにあって、延々と英会話が交わされ、字幕を読ませ続けられるような作品があったでしょうか。これはかなり珍しい気がします。

 

 

以下、ネタバレになります。

 

 

映画序盤のシーンである、エースコックのきつねうどんのCM制作。
このCM自体は飽く迄も劇中のものであって、“本物”ではなく、YouTubeにある動画にも注意書きがあるのですが…、

 

映画『ジャッジ!』きつねうどんCM特別映像
http://www.youtube.com/watch?v=1uwnFw1-GAk

 

…このCMが映画を通してのキーワードとなっていきます。

 

恐ろしいことに、この“キーワード”は映画を飛び出して、くだんのYouTubeのコメントにも現れています。

 

 

これって、劇中にあった、まさにアレですね。
つまり、最も強烈な世界的広告とはインターネットミームだという。

 

「インターネットミームって?

 

このCMはもともと「コシが決め手のきつねうどん」という意味で、キツネが腰を振っていました。
しかし宣伝室長の訳のわからない発言によってネコだということにさせられてしまい、主人公の太田喜一郎は苦し紛れに「ニャーニャー」と鳴きながら「※これは ネコです」という意味不明のテロップを入れることとなりました。
この世にも不可解なCMが広告祭に出品されることとなり、当然のごとく審査員陣から「ニャーとはどういう意味だ」と訊かれるはめになります。
そこで喜一郎は咄嗟の出まかせで「すごく美味しいという意味だ」と答えます。

 

この口からの出まかせが何を間違えたのか大ブレイクし、映画祭の開催されているサンタモニカのうどん屋では皆がニャーニャー言うように。
さらにはこれがツイッター等でネットを介して拡散され、世界中からエースコックに問い合わせが殺到する……というのが本作での話でした。

 

「うどんを食べてニャーニャー言う」というブーム。或いは解釈によってはひとつのカルチャー的なもの。
インターネットを介して拡散した社会現象。これを心理学や行動学の用語で「インターネットミーム(Internet Meme)」と言います。

 

ちなみに、この元ネタは恐らく夏目漱石『吾輩は猫である』でしょうね。
とんと見当がつかぬがニャーニャー泣いていた」がモティーフになっていると思われます。

 

劇中では、かような訳でインターネットミームと化した「うどんでニャーニャー」でしたが、それが現実のYouTubeで世界に向けて発信され、海外からコメントが殺到しているこの状況はには何かを髣髴せずにはいられません。
何か最近、これとは逆の展開で映画外部から伏線を張っていた珍作があったような……。

 

『謝罪の王様』(日本、2013年、水田伸生監督)

 

第4の壁を破るという手法は演劇の世界で昔から行われてきたことではありますが、現実と映画の境界線を破るというものがこれからの技法になっていくのでしょうかね…?

 

 

この記事の先頭へ▲

グスコーブドリの伝記

 

『グスコーブドリの伝記』を観てきました。

 

グスコーブドリの伝記
http://www.budori-movie.com/

 

宮澤賢治ファンの私としては絶対にはずすことの出来ない本作。発表された当初から注目映画の1つでした。

 

 

まずいきなり総評になりますが、賛否は分かれると思われる作りになっています。
原作を『グスコーブドリの伝記』としたとき、恐らくは大半の既読者が「こんな話だったっけ?」と戸惑うのではないでしょうか。後述になりますが、ことに世界観は「えっ?」と感じる部分があるかもしれません。

 

ですが、コアな宮澤賢治ファンになると、本作がいわゆる『グスコーブドリの伝記』だけではなく、その原典とも言える『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』や、『銀河鉄道の夜』『どんぐりと山猫』等の童話作品、さらには『春と修羅』『11月3日』(いわゆる「雨ニモマケズ」のこと)等の詩篇、その他諸々の賢治による地質・農業研究文献をクロスオーバーさせ、再構成した作品であることに気付かれるでしょう。

かように、本作の評価点は、そのまま評価者がどの程度、宮澤賢治に造詣があるかをも見えてきます。
つまり、映画評論を読む際には、宮澤賢治に関する知識が評価者にどの程度あるのかを押さえつつ解いていく必要があると思います。

 

「ということは、
 原作を読まずに映画だけを観て
 夏休みの読書感想文を書いたりしたら…?

 

えらいことになりますね。(笑)
原作『グスコーブドリの伝記』とのギャップは結構激しいので、映画だけを観て感想文を書くような真似はしないようにしましょう。すぐにバレますよ。(笑)

 

「じゃあ物語は原作と全然違うの?

 

いえ、もちろん大筋としては基本的には同じです。

 

宮澤賢治の作品には難解なものも多く、原作『グスコーブドリの伝記』も小学生にはやや難しい内容…というか表現が用いられていると思っています。
また大抵の場合、原作『グスコーブドリの伝記』自己犠牲を描いたものと解釈されることが多く、本の解説でもそのように書かれていることが少なくありません。

 

ネタバレ…というか、もはや原作自体は古典に属するのでラストを伏せるまでもありませんが、主人公は最後に死にます。
この描き方が原作では、賢治作品に於いてはやや強烈な表現であるため、自己犠牲をテーマとしたものだという解釈が往々になされています。私自身も、この解釈自体は間違ったものとは言えないと捉えています

 

しかしこの映画では、この物語が描きたかったテーマはそれとは違うのではないだろうか、という観点から、ラストはやや抽象的な表現に落とされています。
そして、父ナドリや母、妹ネリの死も抽象的に描かれます。

 

「ネリの死…?

 

ネタバレになりますが、この映画では序盤でネリが死にます。
明確にはその死は描かれませんが、人さらいにさらわれて以降、ブドリは二度と妹と再会することは無く、ブドリは「夢の世界」でたびたび人さらいを目撃し、彼を追うことになります。この辺りは『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』『銀河鉄道の夜』のモティーフが引用されていることが覗えます。

 

少し賢治作品の解説をしないとなりませんが、原作『グスコーブドリの伝記』には、そのプロトタイプとも言える原稿があり、そのひとつが『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』になります。
『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』は原稿の欠損が激しく、その全体像は不明ですが、ばけものの世界を舞台としています
このばけものの世界が霊界であるという訳ではありませんが、映画『グスコーブドリの伝記』に登場する「ブドリの夢の世界」には魑魅魍魎達が跋扈し、これは明らかに『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』によるものでしょう。

 

また、『銀河鉄道の夜』とは実際のところ、霊界の物語です。
これは主人公ジョバンニとその親友カムパネルラが銀河鉄道に乗り、旅をする内容となっていますが、ラストで眼を覚ましたジョバンニが知人からカムパネルラが水に溺れて行方不明となったことを知らされます。銀河鉄道とは死者がこの世から黄泉の国へと旅をする為の汽車であり、誤ってジョバンニはその汽車に乗り込んでしまった訳です。彼が銀河ステーションの駅舎を知らず、地図も貰っておらず、カムパネルラほかの乗客とは異なる切符を持っていたのは、彼らとは異なる存在、つまり生者であったからなのでした。

 

映画『グスコーブドリの伝記』では人さらいは死神的な存在として扱われ、ブドリは銀河鉄道を経由してこの世ならぬ世界へと迷い込み、人さらいとたびたび遭遇。この伏線がラストへと帰結し、ブドリが自らの命を顧みず火山の人口噴火を試みる場面で再び現れ、ブドリを火山へと案内する役を演じます。本作の人さらいは、つまり死の象徴に他ならないのです。
原作『グスコーブドリの伝記』の知識が無いか、逆に賢治の多くの作品に通じているのであれば、この辺りの隠喩を読み解き、納得することは容易でしょう。しかし、なまじ原作『グスコーブドリの伝記』を知っているという程度では、ネリ人さらいの扱いが余りにも異なるので困惑するかもしれませんね。

 

「映画での妹ネリの死は
 賢治の妹トシがモデルだね

 

およそ間違いないでしょうね。
もともと原作の時点でトシがモデルであろうとは思われますが、映画でのネリブドリのやりとりには『永訣の朝』を彷彿させます。

 

ネリが死んでしまう以上、ネリとの再会はありません。ですから原作でブドリが暴行を受ける場面は、映画では章まるごとカットされています。
死が抽象的に描かれるだけでなく、暴力的な場面は無くなり、独特なファンタジー色を全面に出した構成となっています

 

「ということは、
 わかりにくい映画ということかな

 

うーん…、もともとやや難解な物語ですし、それが絵的に表現されてわかりやすくなった分、抽象化した描き方を採用して賢治的な世界を構成している、という解釈もできると思います。

 

 

そうそう、世界観という点で思ったのですが、「これって『ファイナルファンタジーZ』みたいな世界だ…」ということ。
こと「ブドリの夢の世界」は3DCGで描かれ、漢字の書かれた看板や鳥居が並び、強くFFZを思わせました。

 

こうした描き方に「これって賢治の世界とは違うのでは?」という印象を持たれる方も多いと思います。実際、私もそう感じました。
ただ、冷静に考えてみると、『グスコーブドリの伝記』の後半はイーハトーヴ火山局での仕事の様子です。前半が沼ばたけであったのに対して、街に出て技術者として活躍する内容に変わります。
一般にはイーハトーヴのイメージは農村であり、『ポラーノの広場』では都市も登場するものの機械文明的なものはあまり登場しません。
しかし『グスコーブドリの伝記』には発電所も登場しますし、執筆当時はまだ存在しなかった潮汐発電も出てきます(!)。なにより火山局自体が行政の研究機関であり、これを映像化すると、本作で描かれていたようなハイテク基地になりそうです。

 

こう考えると、スチームパンクをさらに電気文明へとシフトした世界観は、案外宮澤賢治と親和性があるのでは、という気もしてきました。
そう言えば『銀河鉄道の夜』にも、石炭を焚いていないから動力はアルコールや電気ではないか、という会話がありました。当時の賢治がそれを知っていたかどうかは定かではありませんが、ディーゼルや電気機関車、もしくはいわゆるNEトレイン(ハイブリッド型機関車)を示唆しており、このモティーフが後世、松本零士『銀河鉄道999』他へと影響を与えていくことになります。

 

『グスコーブドリの伝記』はファンタジー作品です。
しかし宮澤賢治が地学に極めて深い造詣を持ち、「石ころ先生」の名で呼ばれていたという記録もあります。
本作ではこうしたバックグラウンドを含めようと、そうした各方面の監修も受けているあたりには強い関心を抱きます。

 

先述の潮汐発電銀河鉄道の動力にしても、賢治の時代にあってはSFです。
一説には日本初のレコードレンタル業は宮澤賢治が行ったとも言われています()。彼に本当に先見の明があったのかどうかは議論の分かれるところでもありますが、こうした世界を具現化する上で、これが文明的社会として表現されうるのは、然りなのかもしれません。

 

※宮澤賢治が音楽好きであり、レコードを収集していたことはよく知られていますが、

  こうした所有レコードを有償で貸し出していたことが記録として残っています。

  タイトルや貸出の料金表も現存しており、

  これらを根拠としてレコードレンタルの先駆と解釈する向きがあります。

 

 

世界観でもうひとつ忘れてはいけないのが、本作オリジナルの「ブドリ語」と呼ばれる文字です。
映画の広告やポスターでも目にしている方は多いと思われますが、映画でも冒頭に表れる主要スタッフがそれぞれブドリ語で綴られ、観客をこの劇中世界へと誘います。

 

お気付きの方もいるとは思いますが、ブドリ語はローマ字をもとにしたものとなっており、その実体は日本語です。
ただ、文字体系は子音字と母音字が合字になり、ハングルに近いとも言えそうです。

 

映画上のコンセプトとしては、宮澤賢治のイーハトーヴ世界を表現する上で、アルファベットでも日本語でもない言語が相応しいということから作られたとパンフレットにはあります。
宮澤賢治エスペラント(国際人工言語の一種)研究者であったことはよく知られていますが、エスペラントがヨーロッパ諸語をもとに均した言語であることによろしく、ブドリ語もラテン文字やその他の文字をもとにデザインされていることが窺い知れます。
ブドリ語には数字もありますが、こちらは通常のアラビア数字のほか、ローマ数字やヒンディー数字ももとにしていることが覗え、なかなか面白いです。

 

以下は私の名前「シオンソルト」をブドリ語で綴ったものです。

 

 

 

 

ところでハンゲームではハッピーベジフルが映画『グスコーブドリの伝記』とタイアップしているようですね。

 

ハッピーベジフル × 映画「グスコーブドリの伝記」タイアップキャンペーン
http://adcreative.hangame.co.jp/ad3/1010/1010641/mypage_vegeful_120705.jpg
http://ad2.hangame.co.jp/adclick?unit=0015B0&ac=1076466&src=1101711&br=1064168
http://static.hangame.co.jp/hangame/event/2012/0614_budori/

 

これを機会に始めてみようかなぁ…。

 

 

 

最後に、参考までに青空文庫収録の『グスコーブドリの伝記』と、関連作品のリンクを掲げておきます。

 

 グスコーブドリの伝記
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.html


 ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/33195_38118.html


 〔雨ニモマケズ〕(11月3日)
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html


 銀河鉄道の夜
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html


 春と修羅(『永訣の朝』が収録されています)
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html


 どんぐりと山猫
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1925_17912.html


 ポラーノの広場
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1935_19925.html

 

 

この記事の先頭へ▲

お名前メモする